2005.10.30

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商店街モノ物語 1
商店街モノ物語 2
商店街モノ物語 3
発行 彦根商店街連盟
編集 彦根商店街連盟広報部会

モノにもいろいろある。彦根の商店街では「お買い物」をするのだが、想い出とか、気持ちとか、思い入れとか……
歳月や伝統とかが混ざり合った「モノ」があったりする。商店街にはモノを物語る文化が継承されていたりするのだ。
お店の歴史と共に残っているモノ、今も使われているモノ……。モノ物語はそういうモノたちの物語になる……はずなのだけど。

茶壺

日本文化を代表する生け花は、その文字通り、植物そのままの姿を生かして表現することが善しとされる。無理に曲げたり不自然な形で接合したりは極力避けなければならない。
しかし、どうしても枝などを横からつなげる必要がある場合、できるだけ自然に見せるために不可欠な道具が「ずゝ平」」で売られている。「手打ちの合釘(あいくぎ)」である。
「ずゝ平」では創業100年以来、新潟の職人が一つずつ手で打った「合釘」を仕入れている。なぜ、建築資材を中心に金物全般を扱っている「ず゛ゝ平」に生け花の道具があるのかといえば、元は鎹(かすがい)と同じように、木材同士をくっつけて固定するために用いられる大工道具であったその名残である。接着剤が発達して、建築現場では使われることが少なくなったが、生け花の世界では、鉄を通じて水分が接合した枝にまで行き渡るので、植物の命を渡す道具として現在でも重宝されているという。機械で打った「合釘」もあるのだが、それだと硬いうえに表面が滑りやすく生け花にはむかない。手打ちだと、思うように曲げることが可能で、表面の凹凸が滑り止めの役割を果たすのが絶妙であることに加えて、一つとして同じ物はないので、表現したいイメージに合致したものを使うことができる。
店主の正村愛子さん(67)によると、最近では、職人の数が減り手打ちのものは稀になってきたが、かつては他にも手打ちの金具はたくさんあって、店を訪れた人が一つずつ手に取りながら自分の用途に最も適したものを店先で選んでいる光景がよく見られたのだという。この約3センチの小さな釘が、当時の様子を教えてくれるのだ。「手打ちの合釘」には、作った職人の思いが込められているようで、温かみすら感じる。正村さんは「必要とされる人がいる限り、手打ちの良さを伝えていきたいですね」と話す。

木型

「いと重菓舗」は江戸時代後期の文化6年(1809年)から続く和菓子の老舗である。
「いと重菓舗」はまた彦根藩主である井伊家の信頼も篤く、その御用達であり、江戸時代の様子が垣間見られるようなエピソードを有した物が数多く今に残っている。
この木型は、現在店頭で販売されている「柳のしずく」という和菓子の表面に、模様をつけるために使用されているものだ。柳の枝が風になびいているかのようなデザインが彫られている。
実は、このデザインの原型となるものを考案したのは、大老・井伊直弼であると伝えられている。直弼は風に逆らわず流れのままにそよぐ柳を愛し、自分を重ねていたと言われ、柳を詠んだ短歌を多く残している。
当時から懇意にしていた「いと重菓舗」に落雁(らくがん)という種類の和菓子を作るようにと、大老自らが木型に模様を彫り、店まで届けさせたのだという。以来、普段は、井伊家の縁者が木型を管理し、慶弔事があると、その縁者が持って来た木型で専用の落雁を作っていたのだという。
戦前までは、直弼が彫った木型を使用していたのだが、「貴重な、井伊大老自作の品を使って傷めてしまうのは忍びない」と全く同じ模様の複製を、京都の木型屋に作らせたものがこれである。しばらくして専用の落雁を作ることはなくなり、木型も使われなくなった。およそ30年前、新しい彦根銘菓を作ろうとしたときに、この木型を活用することを思いつき、故・井伊直愛さんの許可をもらって、落雁とは異なる「柳のしずく」が生みだされた。戦前からのものが今でも使えるのは、和菓子作りと同じで、ひとつずつ丁寧に扱ってきたからだろう。
彦根城築城400年や創業200年を目前に控えた「いと重菓舗」の店主、藤田益平さん(68)は、「昔の道具を使って新商品を作ったり、当時のものを復活させるなど、彦根らしい和菓子に取り組んで行きたい」と話している。
大老、井伊直弼は茶道の極意「一会集」を編んだ人物としても知られている。実に彦根らしいモノ物語である。

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 この記事は、2005年10月30日執筆時の情報に基づいており、現在では異なる場合がございます。