2005.10.30

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商店街モノ物語 1
商店街モノ物語 2
商店街モノ物語 3
発行 彦根商店街連盟
編集 彦根商店街連盟広報部会

モノにもいろいろある。彦根の商店街では「お買い物」をするのだが、想い出とか、気持ちとか、思い入れとか……
歳月や伝統とかが混ざり合った「モノ」があったりする。商店街にはモノを物語る文化が継承されていたりするのだ。
お店の歴史と共に残っているモノ、今も使われているモノ……。モノ物語はそういうモノたちの物語になる……はずなのだけど。

手挽き茶臼

登リ町グリーン通り商店街で、銘茶「政所茶」をはじめとした種々の茶葉と茶道具などを扱っている「政所園」。社長の小椋政昭さんは「お茶屋の誇り」として初代の頃から受け継ぐ「手回しの石臼」を今も大切に使い続ける。
石臼はそばの実をそば粉に、大豆をきな粉に、そして碾(てん)茶をお抹茶にと、あらゆるものを「粉末」に加工する道具である。多孔質の石臼は余分な摩擦熱を逃がし、素材に熱の影響をあたえず、「形」だけを変化させるという優れた機能を持っている道具だ。
「政所園」は元々は永源寺町の政所(現東近江市政所町)でお茶を生産する農家だった。大正13年に先々代(小椋さんの祖父)が彦根に出てお茶の商いを始めた。その時、先々代は一台の石臼を永源寺から持ち出し、それを使って手回しで抹茶を挽いて、市内の和菓子屋さんに「抹茶ういろ」の材料として納めていたのだそうだ。
「お茶席用、和菓子の材料用など、用途や茶葉の状況に合わせて挽き方や回数を変えるのがコツです。幼い頃から石臼で丁寧に抹茶を挽く、祖父母、父親の姿を見て『お茶屋の心意気』を学んできたのだと思います」
小椋さんは今年の4月から夢京橋店で、その石臼で挽いたお抹茶を使ったオリジナルの抹茶ソフトクリーム「源三郎」の販売を始めた。その名前は手回しで抹茶を挽いていた祖父の名前に由来している。
「ソフトクリームを提供していても、本質は『お茶』を売っているのだと思っています。お茶屋にしかできない最高のこだわりがあります。」
手回しの石臼は使われることで単なる石臼から「源三郎」の石臼として新しい命を得たのかもしれない。

提灯入れ&提灯

花しょうぶ通り商店街にある江戸時代の情緒を残す寺子屋「力石」が「街の駅」として生まれ変わった。「現代版寺子屋として実践研修や人材育成をおこなう場所」「商店街を訪れる人々に対して街の歴史や文化、情報を提供する場所」として人、モノ、情報が交差する「プラットホーム」を目指 した施設である。
建物内の一角に力石家の家紋である「梅鉢紋」が描かれた白い木箱「提灯入れ」が掲げられている。
「100年ぐらい前のものでしょうか。昔は嫁入り行列を先導する人がこの提灯を持ち、新しいお嫁さんを当家まで連れて来られたのだそうです」
力石家8代目当主の力石寛治さん(67)の話によれば、この「提灯入れ」に納められている提灯は「おめでたい時」にだけに使っていたものらしく、普段使いの提灯ではなかったそうだ。力石家は江戸中期から250年ほどの歴史を持ち、提灯と提灯入れも相当な数があったそうなのだが、現在では5つだけが残っている。
提灯は手に持つ少し小さめのタイプで、いわゆる「弓張り提灯」という類のものだ。表に家紋と裏側に「力石」という文字が描かれている。取手はふたつの部分に分解でき、提灯の本体を折り畳んで「提灯入れ」に機能的に収納することができる。時間の経過でところどころ傷んだりはしているものの、とても「粋」な逸品である。
寺子屋「力石」は新たな使命とともに「街の駅」へと受け継がれた。
「あるものは大いに活用しませんと…」という力石さんの言葉。そして、最高の「ハレの日」のためにだけに用意された提灯入れと提灯は、今も確かにそこに存在している。

張木

今でこそ着物といえば、一般的に冠婚葬祭やハレの日、習い事のときくらいにしか着られないようになっているが、かつては普段着であって、その手入れも専門店へ修繕に出すのではなく、各家庭でおこなうのが当たり前であった。当時の様子が偲ばれるものが、90年以上の歴史を持つ「竹中荒物店」に残っている。
「張木」(はりき)というこの道具は、伸子針(しんしばり)という方法で、着物の洗い張りをおこなうときに使用していたものである。
着物は、縫合を解くと元の反物の状態に戻すことができる。それをたらいの中で石鹸で洗ったあと、その両端を「張木」で留め、電柱や木の間にわたしていく。次に、裏面を竹ひごのような伸子針を約3センチ間隔で、表面が突っ張るように、しならせて引っ掛けていく。最後に、表面にふのりと呼ばれる海藻から作られた糊をはけで塗ってから天日で干すという洗い方で、反物にしわが寄らない。そして再び、着物へ仕立て直すのだという。伸子針以前は、壁に立てかけた木の板に反物を張り付ける洗い方だったが、75年ほど前からどの家庭でも張木と伸子針は必需品となり、天気のいい日には家や田んぼの横に反物がわたして干してあるという風景がよく見かけられたそうだ。
「竹中荒物店」では、奈良県の茶せんを作っていたところから伸子針を仕入れていた。各家庭に売っていたほかに、行商へも卸していて、静岡県にまで売りに行っていた行商人たちに「竹中さんのはよく売れる」と評判だったそうだ。奥様の竹中千代子さん(62)は「生活様式が変化してきたのに伴って商品も変ってきましたが、新しいものを取り入れつつ、必要とされる人がある限りは懐かしいものも残していきたいです」と話している。

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 この記事は、2005年10月30日執筆時の情報に基づいており、現在では異なる場合がございます。