2008.09.13

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城下町検定対策(1)
城下町検定対策(2)
「橋の市」開催!
発行 彦根商店街連盟
編集 彦根商店街連盟広報部会

丁子屋薬局

元禄5年(1692)の創業以来、300年以上変わらず薬屋を続けている老舗である。彦根城下有数の豪商と称された「近藤久左衛門」の分家に当たるといわれている。店主は代々、近藤市右ヱ門を襲名する慣わしで、現在で12代目となる。
屋号の「丁子」とは植物のクローブのことで、生薬として健胃剤に用いられる他に香料や香辛料としても扱われている。かつての丁子屋は、薬師問屋専門としてだけでなく香料なども幅広く取り扱っていたらしく、彦根出身の画家・故上田道三氏が描いた「丁子屋近藤市右衛門店(昭和47年)」にも「宝丹(気付け薬)」「ビットル散(胃薬)」といった薬の名前書きの他に「中外薬品・洋酒・諸国売薬・香具」を販売していたことが描かれている。
銀座防災建築街区造成が行われた際に古いものはほとんど失われてしまったが、百味箪笥(漢方薬を種類ごとに収納する箪笥)など、長い歴史を感じさせるものが現在でも使われている。

宗安寺

天正18年(1590)に井伊直政が箕輪城主(現群馬県箕郷町)になった際、荒廃していた上総国(群馬県)安国寺を、直政正室の東梅院が父母の菩提を弔うために浄土宗の寺院として再興したことに由来する。慶長5年(1600)に直政が佐和山城主となったのにあわせて移転。東梅院の父母の戒名から一字ずつとって宗安寺と改めた。
彦根城下町の形成に伴って移された現在の場所は、城下町のほぼ中央に位置し、彦根藩の家康位牌奉安所として井伊家に篤く保護され、毎年、藩主自らが参拝に訪れた他、彦根藩の集会所や朝鮮通信使高官の宿泊所としても使用された。本尊は鎌倉時代の阿弥陀如来像(県指定文化財)で、これは淀殿の念持仏を大坂夏の陣で大坂城より持ち出したものと伝えられている。
元禄14年(1701)の火災で山門以外が全焼したが、その後、長浜城より御殿を移築して本堂とした。幕末には彦根藩の行く末を決める会議所として使われ、廃藩置県後の明治5年(1872)には、犬上県庁が一時設置されたこともあった。
佐和山城の正門を移した赤門や大坂夏の陣で井伊家家臣が討ち取った敵将木村重成の首塚、市指定文化財の「伝李朝高官肖像画」や「秋草図屏風」といった歴史的に貴重な建造物や寺宝が数多く残されている。

出口酒店

創業享保2年(1717)、布屋を営んでいた当時の屋号「布市」が今も店先に挙がる。当時、店主の布屋市兵衛は井伊家より名字帯刀を許された御用商人であった。故上田道三氏の描いた明治の店の様子には、安政4年(1859)に彦根藩が御用金集めのために行った藩内2207名の商人を対象とした調査で、上ノ部375名のうちの一つに挙げられていたことが書き添えられており、有力商人の一角であったことが伺える。
明治時代になると、「布市」の店名のまま、5代目が造り酒屋として新たな商いを始め、京都伏見の酒蔵から取り寄せた酒に火入れを行い、「松の心」や「戎鯛(えびすだい)」といったオリジナルブランドの日本酒を販売するようになった。現在は、酒類の卸し小売販売の専門店であるが、店舗にさりげなく置かれている壺やラベルなどはすべてこの家に由来する品々であり、往時が偲ばれる。
創業当時から各時代ごとに建てられた蔵が残り、今も古くからの馴染み客は店を「布市」と呼んで親しんでいるという。

糀七

糀とは、米や麦、大豆などに、食品発酵に有効な微生物を繁殖させたもののこと。その語源は、醸すの名詞形である「かもし」から転じたとも言われ、味噌や醤油、漬物、日本酒、焼酎など、日本の伝統的な発酵食品から深い味わいを引き出すのに欠かせない原材料である。糀七は元禄14年(1701)の創業以来、糀業一筋という彦根を代表する糀製品製造の老舗である。その腕前と地域振興に尽力したことが藩に認められ、文久2年(1862)に井伊家から糀屋七兵衛の名字を賜った。5代目からは糀屋改め北川七兵衛と名乗り、今は9代目が家業を継承している。
「穴の室」で大切に育てられる糀七の糀は、長年培われてきた伝統と職人の経験を頼りに、温度と湿度の微細な変化に気を配り、糀の状態を見ながら子どもを育てるように生み出される。それが食品の旨味を何重にも引き出している。中でも、近江米と地元産の大豆、厳選された素材から作られる味噌は絶品である。

高宮口御門

中央商店街から銀座商店街へは今ではまっすぐ抜けられるが、昔はここにあった外堀の手前で突き当たりになっていて、鉤の手を右に折れると高宮口御門があった。門の名称はここが、通称「久左の辻」から七曲がり、彦根口、大堀村(現大堀町)の分岐点を経て、中山道高宮宿へ至る「高宮道」の起点であったことに由来している。門には常時門番が置かれ城下への出入りを見守っており、夜になると閉じられて通行することはできなかった。
門の内側には伝馬町(現中央町)が形成され、交通の要所としての役割を担っていた。幕末になると、その立地の良さから門につながる鉤の手や外堀に掛かる土橋の両側に「新見せ」と称する、露天のような小屋掛けの商店が立ち並ぶようになり、商いが盛んに行われるようになった。町場の発展に伴い外堀が徐々に埋め立てられると、高宮口御門もその役目を終え、姿を消した。

 この記事は、2008年9月13日執筆時の情報に基づいており、現在では異なる場合がございます。