問題を読み、正しいものをA・B・Cの3つのうちから1つ選び、解答用紙に○をつけてください。

  1. 彦根城ができる前の彦根山周辺の様子の説明として、正しいものを次の中から選びなさい。
    1. 彦根山と芹川をつなぐ百間橋が架けられていた。
    2. 彦根山には、観音堂をはじめいくつもの寺が建っていた。
    3. 山裾にあった彦根村には、旅人のための宿泊施設が多く建てられていた。
    正解:B. 彦根山には、観音堂をはじめいくつもの寺が建っていた。
    彦根城ができる前の様子を描いた絵図(検定テキスト12〜13頁に掲載)を見ると、彦根山にはいくつもの峰が連なっており、観音札所であった観音堂、彦根寺、門甲寺、石上寺などが描かれています。百間橋は佐和山と松原を結ぶ橋で、石田三成が佐和山城主の頃に築かれたといわれています。
  2. 鎌倉時代初期、佐和山城に初めて居城したとされる人物を次の中から選びなさい。
    1. 佐々木定綱 
    2. 佐保時綱 
    3. 磯野員昌
    正解:B. 佐保時綱
    鎌倉時代の初期、佐保時綱が佐和山に居城した最初の人物であるといわれています。佐保時綱は、近江国守護・佐々木定綱の6男です。佐和山は、別名、佐保山とも呼ばれ、佐保の苗字も地名に由来します。磯野員昌は浅井長政家臣で、戦国時代に佐和山城主となった人物です。
  3. 佐和山城の構造についての説明として正しいものを次の中から選びなさい。
    1. 現在の清凉寺の位置に石田三成の屋敷があった。
    2. 佐和山城には天守は築かれなかった。
    3. 大手門は山の東裾に建てられた。
    正解:C. 大手門は山の東裾に建てられた。
    佐和山城は、東山道(江戸時代の中山道)を正面とする構造で、鳥居本方面へ向かう東裾が大手(正面)でした。ただ、山の西麓にも武家屋敷や米蔵があったといわれ、そのなかには「石田屋敷」と呼ばれる建物もあったようです。現在の清凉寺の位置には、石田三成の重臣嶋左近の屋敷があったと伝えられています。三成時代には、天守が築かれたといわれています。
  4. 佐和山城主であった石田三成は、豊臣秀吉の(  )の1人として、その政権を支えました。(  )に入る言葉として正しいものを次の中から選びなさい。
    1. 五奉行
    2. 五大老
    3. 五大名
    正解:A. 五奉行
    石田三成は坂田郡石田村(現長浜市石田町)出身で、長浜城主時代の豊臣秀吉に見出されて家臣となり、その政権を支えた人物です。特に、太閤検地や刀狩令など、秀吉政権が取り組んだ重要な政策で中心となって推し進めました。秀吉の家臣の内、実務を担っていた5人の官僚を五奉行と呼び、三成もその代表格です。五大老とは、徳川家康・前田利家ら、秀吉亡き後の政権を主導した有力大名のことです。
  5. 慶長5年(1600)9月、関ヶ原の合戦に引き続く佐和山城での戦いについての説明として正しいものを次の中から選びなさい。
    1. 佐和山城の戦いでは、石田三成方が勝利した。
    2. 佐和山城を攻撃した大将の1人に井伊直政がいた。
    3. 佐和山城で籠城した大将は石田三成である。
    正解:B. 佐和山城を攻撃した大将の1人に井伊直政がいた。
    慶長5年(1600)9月15日。関ヶ原の合戦で西軍大将の石田三成が敗北すると、翌々日の17日に東軍の井伊直政や小早川秀秋らが三成の居城である佐和山を攻撃しました。三成は関ヶ原で敗れ、すでに湖北に敗走していたため、佐和山城は父の正継や兄の正澄らが留守を守っていました。父たちは籠城を試みますが、東軍の攻撃に佐和山城は陥落。父や兄は天守に火をかけて自害しました。
  6. 江戸時代の五街道のうち、彦根市域を通っているものを次の中から選びなさい。
    1. 東海道
    2. 北陸道
    3. 中山道
    正解:C. 中山道
    五街道とは、江戸時代の江戸を基点とする5つの街道のことで、東海道、中山道、甲州街道、奥州街道、日光街道を総称していったものです。このうち、彦根市域には中山道が通っており、鳥居本と高宮の宿場がありました。特に中山道の佐和山周辺は京都方面と北陸方面への分岐点でもあり、古くから交通の要所で、軍事的にも重要な色合いの濃い場所でした。
  7. 写真の石垣は彦根城の特徴的なものですが、その名称として正しいものを次の中から選びなさい。
    Q07.jpg
    1. 鉢巻・腰巻石垣
    2. 登り石垣
    3. 算木積み
    正解:A. 鉢巻・腰巻石垣
    彦根城の城郭のまわりにめぐらされた石垣の特徴の一つに、石垣と土塁を併用した鉢巻・腰巻石垣があります。腰巻石垣は水堀から立ち上がるところに築いて土留としたもので、鉢巻石垣は土塁の上部に築いて土塀の基礎としたものです。全てを石垣とするより、資材、労力ともに軽減しつつ、同様の防御効果を得ることが出来る工夫で、短期間に効率よく築城した証といえます。
  8. 彦根城天守に作られている仕掛けについての説明として誤っているものを次の中から選びなさい。
    1. 銃弾が貫通しないほど厚い土壁
    2. 兵糧米を備蓄するための地下倉庫
    3. 外部から見えない造りの狭間
    正解:B. 兵糧米を備蓄するための地下倉庫
    彦根城の天守には、戦に備えた様々な仕掛けが施されています。外壁は約40cmもの厚さがある土壁で、敵の銃弾を受けても貫通しないよう、中央の約20cmには小石が詰めてあります。鉄砲や矢を撃つための狭間は外敵から見えないような造りになっており、3階には隠し部屋も作られています。兵粮米を備蓄したのは、現在梅林となっている米蔵です。
  9. 「井伊の赤備え」の由来となった赤備え軍団を率いていた戦国大名を次の中から選びなさい。
    1. 武田氏
    2. 北条氏
    3. 今川氏
    正解:A. 武田氏
    天正10年(1582)、徳川家康は、武田家が滅びたあとの甲斐・信濃(現在の山梨県・長野県あたり)を手に入れると、武田家の旧臣であった地元の武将を井伊直政配下に付け、直政に武田の軍法を継承するよう命じました。その1つが、武田家の勇将飯富虎昌隊の「赤備え」でした。
  10. 井伊直政は近江国(滋賀県)の領主となる前は上野国(群馬県)の領主でした。次の上野国内の城のうち、直政が城主となっていない場所を選びなさい。
    1. 高崎城
    2. 安中城
    3. 箕輪城
    正解:B. 安中城
    天正18年(1590)、徳川家康は、江戸に入り関東を領地とすると、家臣たちにその領地を分け与えました。井伊直政は家臣最大となる12万石を与えられ、上野国箕輪(現群馬県高崎市)城主となりました。その後、和田に新しい城を築くと、ここを高崎と改称しました。安中城は、直政の息子である井伊直継が城主となった所です。
  11. 井伊直政は、関ヶ原の合戦で敵方から鉄砲で撃たれ、その傷が元で死去したと言われています。鉄砲を撃った部隊を次の中から選びなさい。
    1. 小早川秀秋隊
    2. 宇喜多秀家隊
    3. 島津義弘隊
    正解:C. 島津義弘隊
    慶長5年(1600)9月15日の関ヶ原の合戦では、井伊直政は徳川方の主力部隊として戦いました。勝敗がほぼ決すると、西軍の島津義弘隊は、敵中を突破して戦場から抜け出そうと部隊を動かします。直政はそれを察知すると、真っ先に駆け出して島津隊を追いますが、その最中に銃弾を受けました。直政はその2年後に佐和山で亡くなりますが、この時の傷が悪化したのが原因といわれています。当時の芹川中州で荼毘に付され、その場所に長松院が建てられました。
  12. 将軍徳川家光は、上洛するときに彦根城に宿泊していますが、このとき宿泊に使われたとされる建物を次の中から選びなさい。
    1. 天守
    2. 表御殿
    3. 本丸広間
    正解:B. 表御殿
    彦根城は、江戸と京都を行き来する将軍の宿泊施設という役割も持っていました。そのため、表御殿が建設された当初、その一角には将軍宿泊専用の建物である「御守殿」が建てられていました。彦根にやってきた将軍は、初代家康・2代秀忠・3代家光・14代家茂です。
  13. 鐘の丸御守殿はある女性が宿泊することを目的として建てられた建物です。その人物を次の中から選びなさい。
    1. 東福門院和子
    2. 皇女和宮
    3. 天璋院篤姫
    正解:A. 東福門院和子
    鐘の丸御守殿は、徳川秀忠の娘・和子(のちの東福門院)の宿泊施設として建てられました。元和6年(1620)、後水尾天皇の女御として入内する彼女が上洛する途中に宿泊するよう、井伊直孝が建てさせましたが、結局、和子の行列は中山道を通らず、彦根城にも立ち寄らなかったため、使用されることはありませんでした。
  14. 彦根藩主井伊直孝についての説明として正しいものを次の中から選びなさい。
    1. 大坂夏の陣で、大坂方の勇将・真田幸村を討ち取った。
    2. 4代将軍となる徳川家綱の元服式で烏帽子親をつとめた。
    3. 彦根藩の飛び地である下野国佐野(栃木県)で鷹狩りをした。
    正解:B. 4代将軍となる徳川家綱の元服式で烏帽子親をつとめた。
    井伊直孝は、徳川将軍家の筆頭家臣として、将軍家の冠婚葬祭で主要な役を務めています。3代将軍家光の跡継ぎとして生まれた家綱の元服式(今の成人式)では「加冠役」つまり烏帽子親を務めています。大坂夏の陣で井伊直孝隊が討ち取ったのは木村重成隊。直孝が江戸周辺で鷹狩をした領地は世田谷です。
  15. 元は彦根藩士で、のちに出家して京都南郊の深草に庵を結び、詩僧・歌人として著名な僧侶の名を次の中から選びなさい。
    1. 去暦
    2. 隠元
    3. 元政
    正解:C. 元政
    元政は京都一条で生まれ、姉が井伊直孝の側室であった関係で一度は彦根藩士となりますが、病気によって辞し、出家しました。以降は詩僧・歌人として多くの人と交流を深めていきます。出版された作品も多いですが、彦根市内には蓮華寺(中央町)や見塔寺(多景島)に梵鐘銘文が残されています。後進への影響も強く、「彦根文学のさきがけ」と評価されています。
  16. 彦根藩士の一族出身の医者で、その著書により、胎児が胎内で頭を下にしていることを世界で初めて発表した人物を次の中から選びなさい。
    1. 賀川玄悦 
    2. 三浦北庵 
    3. 平石久平次
    正解:A. 賀川玄悦
    賀川玄悦は江戸時代中期の産科医。彦根藩士三浦長富の庶子として生まれ、母方の賀川姓を称します。京都で按摩・鍼灸を修得した後、産科医を志しました。これまで投薬による治療を主としてきた産科に、器具を用いた処置を初めて導入し、実践に基づく研究を独自にすすめました。明和2年(1765)に刊行された『子玄子産論』では、胎児は胎内では頭を下に向けているという「正常胎位」が述べられています。
  17. 井伊直弼の幼名として正しいものを次の中から選びなさい。
    1. 万千代
    2. 鉄三郎
    3. 欽之助
    正解:B. 鉄三郎
    井伊直弼の幼名は鉄三郎です。その前に鉄之介と名乗っていたという記録もあります。藩主の世継ぎとなる弘化3年(1846)(32歳)までこの名を称していました。埋木舎時代の書状にも、鉄三郎と署名したものがあります。
  18. 井伊直弼の兄弟についての説明として正しいものを次の中から選びなさい。
    1. 14人兄弟である。
    2. 妹が1人いる。
    3. 兄に彦根藩家老となった者がいる。
    正解:C. 兄に彦根藩家老となった者がいる。
    井伊直弼は男子15人、女子5人の20人兄弟の19番目として生まれました。兄の親良は、彦根藩筆頭家老である木俣家の養子となり、後に別家を立てて新野左馬助と称し、彦根藩の家老となっています。兄弟のうち女性は全員姉で、弟として直恭がいます。直弼は埋木舎時代、直恭とともに日向延岡藩(宮崎県)主・内藤家の養子候補となりますが、選ばれたのは直恭でした。直恭は内藤政義と名を改めて延岡藩主となりました。
  19. 井伊直弼が行ったことのない場所を次の中から選びなさい。
    1. 大坂
    2. 日光
    3. 京都
    正解:A. 大坂
    彦根藩主となった井伊直弼は、原則として江戸と彦根を一年ごとに往復しましたが、嘉永6年(1853)には日光東照宮へ参詣し、彦根藩領の下野国佐野(栃木県)を巡見しています。翌年10月には、それまで幕府から命じられていた相州警衛、さらに江戸湾警備に代わって京都守護を命じられたため、京都・淀への巡見に向かいました。
  20. 井伊直弼は文武諸芸を学んでいますが、直弼が熱心に取り組み新しい流派を立てた武芸を次の中から選びなさい。
    1. 居合
    2. 馬術
    3. 砲術
    正解:A. 居合
    埋木舎時代の井伊直弼は、文武諸芸に熱心に取り組んでいます。武術では、居合、兵学などに取り組みました。居合は、彦根藩士の河西精八郎から新心流を学び、みずから一派創立の志を立て、新心新流をおこしています。居合に関する著作として「七五三居相秘伝書」があります。兵学では、藩士西村台四郎から山鹿流を学び、24歳のときに伝授書を授かっています。
  21. 井伊直弼が熱心に学んだ古典文学で、自筆写本が今に残るものを次の中から選びなさい。
    1. 伊勢物語
    2. 源氏物語
    3. 平家物語
    正解:A. 伊勢物語
    井伊直弼が熱心に取り組んだ学問として国学があります。それを示すものとして、『伊勢物語』を筆写して、その文中の文言を『源氏物語』など他の古典と比較研究したものが現存しています。
  22. 井伊直弼が埋木舎で暮らしていた頃にあった出来事として誤っているものを次の中から選びなさい。
    1. 長野義言に初めて出会った。
    2. 『茶湯一会集』を執筆した。
    3. 山鹿流兵学の伝授書を授かった。
    正解:B. 『茶湯一会集』を執筆した。
    直弼は埋木舎時代から茶の湯の研究に取り組みましたが、藩主となってからも引き続き研鑽を積み、安政4年(1857)7月ころ、その集大成である『茶湯一会集』が完成しました。その中では、「一期一会」や「独坐観念」など、直弼が茶の湯の精神が述べられています。
  23. 長野義言についての説明として、正しいものを次の中から選びなさい。
    1. 京都で対朝廷工作をおこなった。
    2. 長崎で西洋医学を学んだ。
    3. 彦根藩家老長野家の出身である。
    正解:A. 京都で対朝廷工作をおこなった。
    長野義言は、通称を主膳といいます。出生ははっきりとはわかりませんが、国学者として坂田郡志賀谷(現米原市)で私塾・桃廼舎(もものや)を開き、埋木舎で暮らしていた井伊直弼もその門弟となっていました。直弼が藩主になると、義言は彦根藩士に召し出され、徐々に直弼の側近として活動するようになります。京都の公家に人脈があり、朝廷へ直弼方の意見を伝えようと活躍しました。直弼の没後、文久2年(1862)の政変に伴い捕らえられ、彦根藩内の四十九町(現城町一丁目)の牢屋で処刑されました。
  24. 井伊直弼は文化活動の中で様々な号(別名)を使用していますが、次の中から直弼が使った号ではないものを選びなさい。
    1. 無根水(むねみ)
    2. 間適軒(かんてきけん)
    3. 柳王舎(やぎわのや)
    正解:B. 間適軒(かんてきけん)
    幅広い文化活動を行っていた井伊直弼は様々な雅号をもちいています。「宗観」や、それを訓読みした「無根水(むねみ)」、風になびいても折れない強さをもつ柳を好んで名付けた「柳王舎」、埋木舎の茶室の名称にもした「澍露軒」などを使っています。「間適軒」は表御殿の奥向にあり、直弼が茶会を催したこともある茶室で、現在は復元されています。
  25. 井伊直弼は能の謡本を自作していますが、現存する謡曲草稿の名称を次の中から選びなさい。
    1. 琵琶湖に浮かぶ竹生島に参り弁才天に出会う内容の「竹生島」
    2. 井伊家の苗字にも含まれている伊の文字を巡るストーリーの「伊文字」
    3. 米原市にある筑摩神社の奇祭・鍋冠祭をモチーフにした「筑摩江」
    正解:C. 米原市にある筑摩神社の奇祭・鍋冠祭をモチーフにした「筑摩江」
    能や狂言も井伊直弼が力をいれた趣味のひとつです。後に残る作品を自ら創作しています。直弼が創作した能の謡曲草稿として、筑摩神社(米原市)に伝わる奇祭・鍋冠祭を題材にした「筑摩江」が現在も伝わっています。その他に狂言では、能の古典である「黒塚」をアレンジした「安達女」があり、大蔵流狂言茂山家には今も「鬼が宿」として伝承されています。
  26. 井伊直弼の学んだ茶の湯の流派を次の中から選びなさい。
    1. 石州流 
    2. 遠州流 
    3. 雲州流
    正解:A. 石州流
    直弼が学んだ茶の湯の流派は、将軍家をはじめとする武家に広まった流派で、石州流でした。石州流は、片桐石州によって建てられた流派です。直弼の茶の湯の師匠である片桐宗猿も石州流を継承する茶人です。
  27. 井伊直弼の茶人としての活動についての説明のうち、正しいものを次の中から選びなさい。
    1. 自作の茶道具として黒楽白縁天目茶碗がある。
    2. 自分で建てた茶室「天光室」が今も残る。
    3. 茶会記の1つに『江戸水屋帳』がある。
    正解:A. 自作の茶道具として黒楽白縁天目茶碗がある。
    直弼は、楽焼もたしなみ、茶道具を自作していました。黒楽白縁天目茶碗は、直弼の細やかな作為が感じられる作品です。「天光室」は表御殿にあった茶室で、現在は彦根城博物館内に復元されています。自分で建てた茶室で現存するのは、埋木舎の「澍露軒」です。江戸で催した茶会を記録した茶会記は「東都水屋帳」です。
  28. 井伊直弼作の茶道具の1つに(  )菓子器があります。(  )内に入る言葉として正しいものを次の中から選びなさい。
    1. 多賀杓子
    2. 永源寺厨子
    3. 長浜城瓦
    正解:A. 多賀杓子
    直弼は身近なもので茶の湯に使えそうなものがないか、よく観察していたといわれています。多賀大社の御守りとして有名な多賀杓子もその一つで、柄の部分を取り、趣き深い菓子器へと生まれ変わらせたものが現存しています。
  29. 井伊直弼の茶の湯の集大成というべき著作『茶湯一会集』で述べられていない内容を次の中から選びなさい。
    1. 茶会に呼ぶ人は、自分より目下の人物が好ましい。
    2. 茶会は一生に一度の出会いの場であり、お互いに真心を尽くさなければならない。
    3. 茶会を終えるときは惜しまれる名残りの気持ちを大切にしなければならない。
    正解:A. 茶会に呼ぶ人は、自分より目下の人物が好ましい。
    井伊直弼が茶の湯の集大成としてまとめた『茶湯一会集』に書かれている代表的な内容として「一期一会」と「独坐観念」があります。「一期一会」とは、茶会での出会いは、たとえ後日の茶会で出会ったとしても、今回のものは一度しかないと考え、もてなす側ももてなされる側も心を込めなければならないというもの。「独坐観念」とは、茶席を終え、客を送り出した後、ひとりで座して一服点て、先ほどまで一緒にいた人の名残りを感じるのが、茶の湯の極意であるという考えです。直弼は、身分の上下を問わず、多くの人を茶席でもてなしました。
  30. 写真は、清凉寺所蔵の井伊直弼画像です。この井伊直弼画像には自筆の和歌が記されていますが、その和歌を次の中から選びなさい。
    Q30.jpg
    井伊直弼画像(彦根井伊家菩提寺清凉寺蔵)
    1. そよと吹く風になびきてすなほなる姿をうつす岸の青柳
    2. 世の中をよそに見つつも埋もれ木の埋もれておらむ心なき身は
    3. あふみの海磯うつ浪のいくたびか御世に心をくだきぬるかな
    正解:C. あふみの海磯うつ浪のいくたびか御世に心をくだきぬるかな
    清凉寺蔵の井伊直弼画像は、直弼が御用絵師の狩野永岳に描かせ、井伊家の菩提寺である清凉寺に納めたものです。上部には直弼自詠の和歌「あふみの海磯うつ浪のいく度か御世に心をくだきぬるかな」がしたためられています。「近江の海(琵琶湖)で何度も打ちつける波のように、私も世の中のために心をつくしてきたなぁ」という歌意です。
  31. 写真の画像で井伊直弼が着ている衣装についての説明として正しいものを次の中から選びなさい。
    1. 上着の色は朱色である。
    2. 束帯という大名の正装である。
    3. 毎月2回、この衣装で江戸城へ行った。
    正解:B. 束帯という大名の正装である。
    束帯は、公家風の大礼服です。大名も朝廷から官位を授かっており、その位に応じて着用できる装束が定められていました。直弼は、正四位上という位を授かっていました。これは、大名の中ではかなりの高位になり、この位に相当するのは黒い上衣でした。その下の位だと、朱色の上衣となります。
  32. 嘉永3年(1850)、井伊直弼が36歳(数え年)の時に住んでいた屋敷はどこか、次の中から選びなさい。
    1. 彦根城表御殿
    2. 江戸上屋敷
    3. 埋木舎
    正解:B. 江戸上屋敷
    嘉永3年(1850)、直弼は36歳で彦根藩主となります。32歳で世子となったときから、江戸上屋敷に居住していました。藩主就任は、将軍から命じられるため、必ず江戸にいます。藩主となって彦根に帰ったのは、その翌年でした。
  33. 井伊直弼の彦根藩主としての政策についての説明として誤っているものを次の中から選びなさい。
    1. 先代藩主である井伊直亮の遺産を家臣・領民に分配した。
    2. 誰もが政治に意見を述べられるよう、目安箱を設置した。
    3. 何年もかけて、領内の村々を残りなく見てまわった。
    正解:B. 誰もが政治に意見を述べられるよう、目安箱を設置した。
    直弼は藩主に就任すると、まず、先代藩主直亮の遺産を家臣・領民に分配しました。また、領内巡見をおこないました。直弼は、領内を残りなく巡見しようと決め、3か年・9回にわけて領内の隅々まで巡りました。いずれも領主として、領民へ心を向けた直弼政治の特徴があらわれています。
  34. 直弼の正室についての説明として正しいものを次の中から選びなさい。
    1. 和歌山藩主徳川家の娘である。
    2. 名前は宜子(よしこ)である。
    3. 直弼が38歳の時正室にむかえた。
    正解:C. 直弼が38歳の時正室にむかえた。
    大名の正室は、家柄が重んじられ、大名家や公家の娘が迎えられました。井伊直弼は、32歳で世子となった後で正室を大名家から探しますが、年齢的に釣り合う女性はおらず、縁談がまとまったのは、丹波亀山藩(現京都府)藩の前藩主・松平信豪の娘の昌子(当時12歳)でした。直弼とは20歳の年の差がありました。昌子が井伊家へ嫁いだのは、嘉永5年(1852)のことでした。
  35. 井伊直弼の娘として生まれ、讃岐高松藩主となった松平頼聰に嫁いだ人物で、持ち物だった雛道具などが今も彦根城博物館に収蔵されている人物を次の中から選びなさい。
    1. 里和
    2. 弥千代
    3. 加寿江
    正解:B. 弥千代
    井伊直弼には側室の静江との間に弥千代という娘がいました。弥千代は直弼の2女として生まれ、安政5年(1858)に高松藩世子・松平頼聰の元に輿入れします。当時、大名家では女子の婚礼の際に、婚礼調度の雛形として雛道具を調え、婚家に持参するのが慣わしでした。文久2年(1862)、反直弼派が幕政を掌握して、彦根藩が処罰されると、弥千代は婚家に類が及ぶのを避けるため離縁して井伊家に戻りました(明治維新後、再嫁)。雛道具は、その時持ち帰ったため、彦根に残されました。里和は直弼の側室の一人で、跡継ぎとなった直憲などの生母です。加寿江は村山たかの別名。
  36. 井伊直弼の娘・砂千代は、滋賀県内にある著名な寺院に嫁ぎました。その寺院を次の中から選びなさい。
    1. 延暦寺
    2. 大通寺
    3. 百済寺
    正解:B. 大通寺
    砂千代は井伊直弼の7女として安政4年(1857)に生まれました。幼くして、井伊家と縁戚関係のある長浜大通寺の養女となり、明治5年(1872)に大通寺10世霊寿院厳澄の内室となりました。大通寺には、砂千代の持参した婚礼調度が現存しています。
  37. 13代将軍の後継ぎをめぐる対立で、井伊直弼らは自身が推薦した人物の出身地から( ア )と呼ばれます。( ア )に入る言葉と推薦した人物( イ )の組み合わせで正しいものを次の中から選びなさい。
    1. (ア) 南紀派 ・ (イ) 徳川慶福(後の徳川家茂)
    2. (ア) 一橋派 ・ (イ) 一橋慶喜(後の徳川慶喜)
    3. (ア) 土佐派 ・ (イ) 山内容堂(後の徳川豊信)
    正解:A.(ア) 南紀派 ・ (イ) 徳川慶福(後の徳川家茂)
    13代将軍徳川家定は生来病弱で、跡継ぎとなる子どもはいませんでした。そのため、誰を将軍の養子とするかで2人の候補が挙げられていました。井伊直弼らは、従来からの決定方法にのっとって血筋が近い和歌山藩主の徳川慶福を推薦し、その出身地にちなんで南紀派と呼ばれました。水戸徳川家の徳川斉昭は、実子の一橋慶喜を次期将軍とするよう画策し、福井藩主松平慶永(春嶽)や薩摩藩主島津斉彬らがこれに賛同しました。彼らは一橋派と呼ばれました。
  38. 井伊直弼が将軍徳川家茂から慰労の意味を込めて拝領した品を次の中から選びなさい。
    1. 将軍家光の刀
    2. 将軍吉宗の鞍
    3. 将軍綱吉の書跡
    正解:B. 将軍吉宗の鞍
    安政5年(1858)の年末、直弼は将軍徳川家茂から8代将軍吉宗常用の鞍を拝領しました。開国問題、反幕府行為を行った者の捜査に加え、家茂の将軍就任に伴う諸儀礼が重なり、この年はこれまでにないほど諸問題の重なった一年でした。拝領したのは、それを慰労する心を込めてのものでした。この鞍は、現在彦根城博物館に所蔵されています。
  39. この絵は幕末のある大きな事件を描いたものですが、この事件についての説明として正しいものを次の中から選びなさい。
    Q39.jpg
    彦根城博物館蔵
    1. ハリスと日米修好通商条約を調印
    2. ペリーがアメリカ大統領の国書を持参
    3. 初の貿易船が横浜に入港
    正解:B. ペリーがアメリカ大統領の国書を持参
    嘉永6年(1853)6月にアメリカの東インド艦隊司令長官兼遣日大使のマシュー・C・ペリーが旗艦サスケハナとミシシッピ、帆船サラトガとプリマスの4隻を率いて浦賀沖(神奈川県)に来航しました。ペリーはアメリカ大統領フィルモアの親書を持参し、日本に開国を促しました。蒸気船を目の当たりにした日本人は驚き、急激な時代の変化を体感します。なお、彦根藩は相州警衛をしており、ペリー来航時には浦賀で海岸警備をしていました。この「ペリー浦賀来航図」にも、整列する彦根藩兵が描かれています。
  40. ペリーが浦賀にやってきて開国を求めた際、直弼がとった行動として正しいものを次の中から選びなさい。
    1. 黒船を視察しに浦賀へ行った。
    2. 開国に関する意見書を幕府に提出した。
    3. 彦根城下町に大砲製造用の反射炉を製造した。
    正解:B. 開国に関する意見書を幕府に提出した。
    嘉永6年(1853年)、ペリーが浦賀に来航すると、井伊直弼は幕政を後見する重臣の立場から、その対処法について意見書を提出しました。2度提出したため、1回目は「初度存寄書」、2度目は「別段存寄書」と呼ばれます。彦根藩の学者・中川禄郎の考えに基づいた意見で、海外に門戸を開くべきという内容が含まれています。
  41. 井伊直弼が大老に就任した年月日を次の中から選びなさい。
    1. 安政5年4月23日
    2. 安政5年5月15日
    3. 安政5年6月4日
    正解:A. 安政5年4月23日
    井伊直弼が大老に就任したのは安政5年(1858)4月23日のことです。当時、幕府は日米修好通商条約を結ぶために天皇の勅許を得ようとしていましたが、老中堀田正睦が勅許を得ることに失敗したため、将軍家定は、井伊直弼を大老として幕政を主導するよう決断しました。大老となった直弼は、将軍家定のもとで、その養子を決定し、条約調印にむけて手続きを進めていくのでした。
  42. 井伊直弼が対面したことのある人物を次の中から選びなさい。
    1. アメリカ東インド艦隊司令長官 ペリー
    2. アメリカ駐日総領事 ハリス
    3. アメリカ大統領 フィルモア
    正解:B. アメリカ駐日総領事 ハリス
    日本に派遣されたハリスは、安政4年、アメリカ人として初めて江戸城に登城し、将軍に謁見して親書を読み上げています。従来から、朝鮮通信使やオランダ商館長が江戸城に登城して将軍に対面する際も、井伊家当主は徳川家の重臣として列席しており、この時も、直弼は幕府重臣としてこの儀式に加わっています。ハリスの登城を契機として、条約調印交渉が本格化しました。
  43. 安政の5カ国条約で日本と条約を締結した国に含まれるものを次の中から選びなさい。
    1. ドイツ
    2. フランス
    3. イタリア
    正解:B. フランス
    安政5年(1858)に日米修好通商条約が締結されると、アメリカと同様に、日本に通商を求めていたオランダ・ロシア・イギリス・フランスと順次通商条約が結ばれます。これを総称して安政の5カ国条約といいます。これらによって、日本は本格的に海外との通商を始めることになりました。
  44. 井伊直弼が大老のときに締結された日米修好通商条約の内容として正しいものを次の中から選びなさい。
    1. アメリカ人の居留地を下田に設定する。
    2. 日本の金貨銀貨の価値比率をアメリカと同等にする。
    3. 箱館(函館)・新潟・神奈川・兵庫・長崎の5港を開港する。
    正解:C. 箱館(函館)・新潟・神奈川・兵庫・長崎の5港を開港する。
    安政5年(1858)6月に締結された日米修好通商条約ではいくつかの約束が日米間で取り交わされました。代表的な内容として、神奈川・長崎・函館・新潟・兵庫を開港すること。江戸と大坂を開市すること。領事裁判権を承認すること。自由貿易を認め、関税については予め両国で話し合うことなどが盛り込まれました。
  45. 井伊直弼が大老職に就いていた時期に、幕府政治でおこなわれたことを次の中から選びなさい。
    1. 皇女和宮が将軍徳川家茂に嫁いだ。
    2. 咸臨丸がアメリカにむけて出発した。
    3. 兵庫を開港した。
    正解:B. 咸臨丸がアメリカにむけて出発した。
    安政6年(1859)、咸臨丸が日米修好通商条約の批准書を交わすために渡米しました。日本人が操縦して初めて太平洋を横断した船で、艦長・勝海舟以下90名が乗り込み、その中には福沢諭吉、ジョン万次郎もいました。皇女和宮の降嫁は直弼生前から計画はありましたが、嫁いだのは文久2年(1862)のことです。兵庫の開港は、条約では文久2年と決められましたが、天皇の反対により延期されます。
  46. 孝明天皇が出した井伊直弼の政治を批判した文書の名称を次の中から選びなさい。
    1. 戊午の密命
    2. 戊午の密勅
    3. 戊午の詔書
    正解:B. 戊午の密勅
    安政5年(1858)8月8日、水戸斉昭ら反直弼方は朝廷に政治工作して、勅許を得ないまま条約調印した幕政を批判する孝明天皇の勅命を出すことに成功しました。この勅命を戊午の密勅といいます。この密勅は、幕府へ出されたほか、幕府が隠匿しないようにと水戸藩へも渡されました。江戸時代は、大名が幕府を経ないで直接朝廷と政治交渉することは厳禁され、これを犯した者は社会体制の根幹を揺るがす大罪として徹底的に糾明されました。水戸斉昭らが安政の大獄で処罰されたのはこのためです。
  47. 井伊直弼の幕府政治に対する考え方として正しいものを次の中から選びなさい。
    1. 実力のある人間を登用するのがいい。
    2. 従来のやり方を踏襲する政治がいい。
    3. 外様大名の意見を聞いて政策判断をするのがいい。
    正解:B. 従来のやり方を踏襲する政治がいい。
    譜代大名の重鎮である井伊直弼は、代々幕政を担ってきた自負により、200年以上続けてきた体制を維持するべきという考えを持っていました。それは、譜代大名たちが将軍を支えて幕府政治を運営するというものです。それに対し、従来幕政に参画してこなかった外様大名・徳川一門が発言力を高め、幕政への参入を画策したのが、自派の一橋慶喜を次期将軍に擁立しようとする運動でした。
  48. 桜田門外の変についての説明として正しいものを次の中から選びなさい。
    1. 直弼の御供をしていた家臣のうち8人が死去した。
    2. 襲撃は水戸藩主徳川斉昭の命令によるものである。
    3. 直弼の死が公表されたのは、死後1週間後のことである。
    正解:A. 直弼の御供をしていた家臣のうち8人が死去した。
    桜田門外の変は安政7年(1860)3月3日におこりました。直接の要因は、水戸藩へ渡った戊午の密勅を返納するよう幕府が朝廷を通じて水戸藩へ命じ、それを阻止しようとした水戸藩の過激派が脱藩して起こしたものです。襲撃側は水戸浪士17人・薩摩浪士1人で、江戸城へ向かう直弼の行列を襲撃しました。直弼の御供をしていた家臣のうち8人が死去しました。直弼が暗殺されたのは明らかでしたが、形式的にはけがを負ったとされ、直弼の死が公表されたのは閏3月晦日のことでした。
  49. 桜田門外の変が起こったことを彦根に伝えた彦根藩士で、埋木舎の保存に尽力した人物を次の中から選びなさい。
    1. 犬塚外記 
    2. 河西忠左衛門 
    3. 大久保小膳
    正解:C. 大久保小膳
    大久保小膳は直弼に信頼された家臣の一人で、直弼の子どもたちの養育にもあたっていました。桜田門外の変が起こると、大久保らは当日中に江戸を発ち、急使として彦根に向かいました。明治維新後、埋木舎は大久保家に下賜され、今に至るまで同家が保存につとめています。
  50. 長野主膳とともに井伊直弼の側近として働き、将軍継嗣問題や安政の大獄の処理に活躍しましたが、直弼の死後、長野とともに処刑された人物を次の中から選びなさい。
    1. 木俣守安
    2. 谷 鉄臣
    3. 宇津木景福
    正解:C. 宇津木景福
    井伊直弼が大老に就くと、宇津木景福(六之丞)はその秘書官的な役職である公用人に就きます。直弼の意を汲んで各方面へ書状を出すのも宇津木の役割でした。京都で情報収集をする長野主膳と直弼とのやりとりも宇津木を通じて行われました。文久2年(1862)、幕府で政変が起こると、藩の中枢もこれに傾き、長野と宇津木は捕らえられ、藩内の牢屋で処刑されました。彼が残した「公用方秘録」は直弼の大老政治を知る上で貴重な史料です。
  51. 井伊直弼の没後の政治的事件として、誤っているものを次の中から選びなさい。
    1. 直弼死去の2年後、直弼と政治的に対立していた勢力が幕府の実権を握った。
    2. 直弼死去の4年後、水戸藩の過激派「天狗党」が挙兵するが鎮圧された。
    3. 直弼死去の4年後、幕府軍は将軍徳川家茂みずから薩摩に向かって出兵した。
    正解:C. 直弼死去の4年後、幕府軍は将軍徳川家茂みずから薩摩に向かって出兵した。
    文久2年(1862)、薩摩藩の島津久光が挙兵上京し、勅使大原重徳とともに江戸へ下向し、幕府に改革を要求します。これにより、一橋慶喜が将軍後見職となるなど、直弼と政治的に対立していた一橋派が幕政を主導することになりました。元治元年(1864)、水戸藩では過激派の「天狗党」が藩の保守派と対立して挙兵しますが、鎮圧されました。同年、京都で蛤御門の変を起こした長州藩に対して追討の勅命が下され、幕府軍が長州へ向けて出兵しました。将軍家茂は大坂まで出向きましたが、この地で死去しました。
  52. 遠城謙道は元彦根藩士で、直弼の死後、(    )人物として知られています。(  )内に入る内容として正しいものを次の中から選びなさい。
    1. 清凉寺の僧侶となり毎日直弼の位牌に読経した
    2. 豪徳寺で直弼の墓守をして生涯をすごした
    3. 絵の修行をして直弼の功績を絵画に残した
    正解:B. 豪徳寺で直弼の墓守をして生涯をすごした
    遠城謙道は、元々、彦根藩の足軽でしたが、桜田門外の変で藩主・井伊直弼が暗殺されると、主君の旧恩に報いるために出家し、直弼の墓がある豪徳寺(東京都世田谷区)に庵を建てて、生涯をその墓守に捧げた人物です。後に、30年以上も直弼の慰霊に尽くし続けた姿が讃えられ、金亀児童公園内の井伊直弼像の側に寄り添うようにして『遠城謙道師之碑』が建てられています。
  53. 井伊直弼ゆかりの寺院についての説明として誤っているものを次の中から選びなさい。
    1. 大信寺は直弼の母の墓所である。
    2. 天寧寺は直弼の父である直中が建立した。
    3. 清凉寺は直弼が参禅に通った。
    正解:A. 大信寺は直弼の母の墓所である。
    彦根市里根町にある天寧寺は井伊直弼の父である井伊直中が建てた曹洞宗の寺院で、会いたい人の顔が必ず見つかるという五百羅漢があることで有名です。山門脇にある井伊直弼供養塔は、桜田門外で落命した際の血染めの衣装と土を納めて建立されたもので、境内には長野主膳の墓や村山たかの碑も建てられています。また直弼は子どもの頃から清凉寺へ参禅に通い、手習いや禅学を学んでいます。直弼の母であるお富の方の墓は龍潭寺に建てられました。
  54. 次の写真は、いずれも彦根市内に建つ像です。この中から井伊直弼の像を選びなさい。
    1. Q54_A.jpg
    2. Q54_B.jpg
    3. Q54_C.jpg
    正解:B
    井伊直弼の銅像は金亀児童公園内に建てられています。清凉寺所蔵の井伊直弼画像と同様の束帯姿です。この直弼像は、その業績を顕彰しようとした旧彦根藩士らによって明治時代に計画され、建てられました。当初は護国神社付近の尾末公園に建てられていましたが、その後、公会堂前(現在の金亀児童公園付近)に移築され、戦時中に銅供出のため一度取り壊されました。昭和24年(1949)に護国神社境内に再建され、昭和33年(1958)に現在地に移されました。Aは石川千代松博士の銅像(彦根市船町)、Cは井伊直政の銅像(彦根市大東町)です。
  55. 井伊直弼の銅像は彦根市内のほか、横浜市掃部山にも建っています。ここが銅像を建てる場所に選ばれた理由として正しいものを次の中から選びなさい。
    1. 直弼が何度も訪れた別荘がここに建っていたから。
    2. たまたま、直弼の名前と同じ「掃部(かもん)」という町名だったから。
    3. 直弼の結んだ条約によって横浜が発展したから。
    正解:C. 直弼の結んだ条約によって横浜が発展したから。
    横浜市の掃部山公園に建てられている井伊直弼像は、彦根の金亀児童公園の銅像と同じく、旧彦根藩士らによって建てられたものです。横浜は、江戸時代末期までは寒村でしたが、通商条約により開港されて街が発展したとして、明治42年(1909)横浜市開港50年祝典にあわせて建てられました。
  56. 彦根城下町で作られた焼物である湖東焼についての説明として正しいものを次の中から選びなさい。
    1. 井伊直弼が幕府の大老職に就いていた時に最初の窯が完成した。
    2. 井伊直憲が藩主になった年に安政の大地震で窯場が半壊した。
    3. 井伊直亮が藩主をつとめていた時に藩窯として召し上げられた。
    正解:C. 井伊直亮が藩主をつとめていた時に藩窯として召し上げられた。
    彦根城下の商人・絹屋半兵衛が始めた湖東焼は、天保13年(1842)、藩主井伊直亮により藩窯として召し上げられました。直弼の時代が湖東焼の最盛期で、優秀な職人を召し抱え、高級品を生産しました。佐和山の麓にある湖東焼窯場跡は県の史跡に指定されています。
  57. 次の3点の焼物の中には、湖東焼の特徴がよくあらわれている作品が1点あります。その作品を次の中から選びなさい。(他の2点は湖東焼ではありません)
    1. Q57_A.jpg
    2. Q57_B.jpg
    3. Q57_C.jpg
    正解:B
    湖東焼は、金襴手・赤絵などのこまやかな絵付が施された逸品が多く作られています。Bは藩窯期の最盛期に作られた湖東焼の作品「赤絵虎渓三笑図六角徳利」です。赤絵の絵付を施したのは、坂田郡原村(彦根市)の床山玉侊という職人です。Aは中国・明時代の「青磁刻花牡丹文花生」、胴部の牡丹文は彫ってつけたものです。Cは中国南部で制作され日本に伝来し「交趾(こうち)焼」とよばれる作品。胴部に薄く貼り付けて文様をあらわしています。
  58. 井伊直弼の生涯を描き、NHK大河ドラマの第1作目の原作にもなった歴史小説「花の生涯」の作者を次の中から選びなさい。
    1. 舟橋聖一
    2. 吉川英治
    3. 山本周五郎
    正解:A. 舟橋聖一
    NHK大河ドラマ第一作の『花の生涯』は、舟橋聖一の小説が原作です。昭和38年(1963)に放映されると、全国から彦根市へ観光客が押し寄せました。これにより、舟橋は彦根市名誉市民の第一号に選ばれています。
  59. 歴史小説家・司馬遼太郎が、桜田門外の変を含め江戸時代におこった12の暗殺事件を独特の歴史観を元に描写した短編集のタイトルを次の中から選びなさい。
    1. 凶刃
    2. 幕末
    3. 時代
    正解:B. 幕末
    司馬遼太郎の『幕末』は、幕末の暗殺事件をテーマとした短編小説集です。冒頭に収録された「桜田門外の変」は、直弼でも水戸浪士でもなく、大老襲撃に唯一薩摩藩出身として加わった有村次左衛門の視点で描かれた独特のスタイルです。作中では、井伊直弼について、暗殺されることがもっとも重要な歴史的役割であったと辛口の評価がされています。
  60. 明治時代、旧彦根藩士は様々な分野で活躍していますが、人名とその業績の組み合わせとして正しいものを次の中から選びなさい。
    1. 鈴木貫一……日本生命保険会社を設立した。
    2. 相馬永胤……専修大学の初代学長となった。
    3. 岡本黄石……書家として活躍し帝室技芸員になった。
    正解:B. 相馬永胤……専修大学の初代学長となった。
    相馬永胤は彦根藩士出身で、明治初年にアメリカに留学して主に法律を学んだ人物です。帰国後、日本最初の代言人(今でいう弁護士)となり、衆議院議員にも当選します。また、仲間とともに専修学校を設立し、同校が大学となったときには初代学長に就任しました。志茂田景樹の小説『蒼翼の獅子たち』(2008年刊)は、相馬ら専修大学創設者4人の青春を描いた作品です。鈴木貫一は幕末にアメリカへ留学し、明治4年(1871)に自宅に洋学校を開いた人物。岡本黄石は直弼没後の彦根藩を主導した家老で、明治維新後は政治から引退して、東京で漢詩人として暮らしました。
  61. 彦根出身の政治家である大東義徹についての説明として正しいものを次の中から選びなさい。
    1. 大隈重信内閣で司法大臣をつとめた。
    2. 大東に改姓する前は「大西」という苗字であった。
    3. 関西鉄道の創設に尽力して初代社長となった。
    正解:A. 大隈重信内閣で司法大臣をつとめた。
    大東義徹は彦根藩足軽の小西家に生まれましたが、小よりも大、日の沈む西よりも昇る東がいいとして「大東」に改姓しました。大隈重信と政治活動をともにし、明治31年(1898)に大隈重信内閣が成立すると司法大臣に抜擢されました。明治29年(1896)の近江鉄道創設の際には、初代社長に就任しています。
  62. 明治時代以降、彦根の主要産業となったものに製糸業がありますが、彦根で最初に建てられた製糸場の名称として正しいものを次の中から選びなさい。
    1. 近江絹糸紡績
    2. 彦根製糸場
    3. 山中製糸場
    正解:B. 彦根製糸場
    明治11年(1878)、官営富岡製糸場に倣って、平田村(現在の彦根市平田町)に県営の彦根製糸場が建てられ、輸出用生糸の製造が始まりました。彦根製糸場は、井伊家へ払い下げられた後、明治35年(1902)に閉鎖されますが、これを機として彦根に養蚕製糸業が根付き、彦根の主要産業となりました。
  63. 本町にある彦根幼稚園の前身は、明治23年(1890)彦根藩医であった(  ア  )によって(  イ  )に設立された彦根で最初の私立幼稚園です。(  )に入る組み合わせとして正しいものを次の中から選びなさい。
    1. (ア) 武節寛治 ・ (イ) 円常寺
    2. (ア) 上田成伴 ・ (イ) 江国寺
    3. (ア) 中嶋宗達 ・ (イ) 明性寺
    正解:C. (ア) 中嶋宗達 ・ (イ) 明性寺
    中嶋宗達は彦根藩医で、維新後は横浜に留学して西洋医術を学び、東京で開業医となります。やがて彦根に帰ってくると、全県下で新しい医療技術とキリスト教の普及に尽力しました。また、彦根幼稚園や彦根女学校設立にも尽力するなど、教育者としての功績も多く残しています。
  64. 彦根城町郵便局の前に今も建っている幕末の彦根の歴史と関係が深いものを次の中から選びなさい。
    1. 鳥羽伏見の戦いでの井伊家の功績を讃えた「赤備地蔵」
    2. 日米修好通商条約締結を記念した「亜米利加地蔵」
    3. 井伊直弼の側近・長野主膳を祀った「義言地蔵」
    正解:C. 井伊直弼の側近・長野主膳を祀った「義言地蔵」
    彦根城町郵便局の前には、長野主膳を祀った「義言地蔵」が置かれています。義言(よしとき)は長野主膳の諱(いみな)です。直弼の死の2年後、文久の政変により反直弼勢力が幕政の中核を担うと、彦根藩によって逮捕され、四十九町(現城町一丁目)にあった牢屋で処刑されます。この地蔵は長野の門人であった中村長平が、その場所に地蔵尊を祀ったものであると伝わっています。
  65. 第6代彦根市長小林郁は衛生課を創設して、ある流行病の撲滅に取り組みました。この病気を次の中から選びなさい。
    1. コレラ 
    2. マラリア 
    3. 赤痢
    正解:B. マラリア
    内科医の小林郁は、彦根町議を経て第6代彦根市長となります。その当時、市内で「おこり」と呼ばれて恐れられていた流行病がマラリアで、小林市長はその対策に乗り出しました。市役所に衛生課を創設し、マラリア研究所を設置、マラリアを媒介する蚊の温床となっていた外堀の埋め立てなどを実行しました。これらにより患者数は劇的に減少し、大きな効果をもたらしました。市長を退いた後には、衆議院議員となっています。
  66. 平成19年度に新たに彦根市指定文化財に指定された建物である赤玉神教丸本舗についての説明のうち、誤っているものを次の中から選びなさい。
    1. 寛永5年(1628)に建てられた。
    2. 皇女和宮が休息した。
    3. 鳥居本宿に建つ。
    正解:A. 寛永5年(1628)に建てられた。
    中山道の鳥居本宿にある赤玉神教丸本舗(現在の社名は有川製薬株式会社)は350年以上の歴史を持つ老舗です。神教丸の名は、多賀大社の神の教えで薬を調合したことに由来するといわれ、街道を行く旅人に重宝されました。その本舗建物は、江戸時代中期の宝暦年間(1751〜64)に建てられたものと伝えられ、堂々とした建物外観、機能的な建物構成は江戸時代の大店舗の姿を良好に留めているとして、平成19年度、彦根市指定文化財となりました。和宮降嫁や明治天皇の北国巡幸などの際にもここが使われています。
  67. 平成19年度に国の登録文化財となった建物を次の中から選びなさい。
    1. 金亀会館
    2. スミス記念堂
    3. 滋賀大学陵水会館
    正解:B. スミス記念堂
    平成19年に国の登録文化財に登録されたスミス記念堂は、昭和6年(1931)に堀端に建てられていた礼拝堂を移築したものです。元は日本聖公会彦根聖愛教会の牧師で彦根高商の教員でもあったパーシー・アルメリン・スミスが両親を記念して建てたもので、和洋折衷の礼拝堂として親しまれてきました。道路の拡幅にともない、一時取り壊されましたが、平成19年にかつての資材を使って現在の位置に復元されました。
  68. 現在活躍している狂言師のなかに彦根藩お抱えだった家があります。その名称を次の中から選びなさい。
    1. 片山家
    2. 和泉家
    3. 茂山家
    正解:C. 茂山家
    天保13年(1842)、京都の大蔵流狂言師・茂山千五郎が彦根藩お抱えの狂言師となりました。のちに千作と改名しますが、千五郎という名は、今に至るまで、歴代当主に受け継がれています。現在でも彦根城博物館能舞台で開催される夏の夕涼み狂言は、茂山一門によるものです。
  69. 表御殿能舞台についての説明として正しいものを次の中から選びなさい。
    1. 舞台の下には瓶が敷き詰められている。
    2. 約200年前に建てられた建物である。
    3. 舞台正面には橘の絵が描かれている。
    正解:B. 約200年前に建てられた建物である。
    表御殿能舞台が造られたのは、今から約200年前の江戸時代後期、寛政12年(1800)です。表御殿の中央にあたる場所に造られました。明治時代になると表御殿は取り壊されましたが、能舞台は井伊神社境内に移築され、戦後、護国神社(沙々那美神社)へと場所を移して残っていました。彦根城博物館を表御殿の位置に建設するのにあたり、元の位置に戻されました。建設に際しておこなわれた発掘調査によって、舞台の下に、音響効果をねらって漆喰舛が敷かれていたことがわかりました。舞台正面に描かれているのは老松の絵です。
  70. 彦根城博物館の所蔵作品の中には、雅楽器の日本有数のコレクションがありますが、これを収集した人物を次の中から選びなさい。
    1. 井伊直憲
    2. 井伊直忠
    3. 井伊直亮
    正解:C. 井伊直亮
    彦根城博物館には、彦根藩主井伊直亮が収集した雅楽器類が所蔵されています。直亮は、雅楽を伝承していた公家や楽家から、各種雅楽器の奏法を伝授され、また家臣に学ばせるほど、雅楽の受容に熱心でした。直亮収集の楽器は、質量ともに日本有数のコレクションとして知られています。中には平安、鎌倉時代に遡る在銘の作品もあり、さらに華美な装飾の施された箱や袋など、実用品としての枠を越え、美術品としても見ごたえのあるコレクションです。
  71. 彦根城博物館の展示内容として正しいものを次の中から選びなさい。
    1. 2ヶ月に1回、すべての展示作品を入れ替える。
    2. 復元した表御殿の中に2階建ての建物がある。
    3. 井伊直弼と開国150年祭にあわせて「直弼繚乱」という企画をしている。
    正解:B. 復元した表御殿の中に2階建ての建物がある。
    彦根城博物館の建物は、彦根藩の政庁であった表御殿を復元したもので、政治空間であった表向は外観復元、藩主の生活空間であった奥向は木造で昔さながらに復元されています。奥向には、数寄屋造りの2階建ての建物「御亭(おちん)」があります。ここは藩主がゆったりとくつろいだ部屋です。彦根城博物館の展示は、ほぼ1か月に1回、年間11回展示替えをしています。井伊直弼と開国150年祭にあわせたシリーズはテーマ展「直弼発見!」、常設展示では特集コーナー「直弼のこころ」を設けています。
  72. 彦根にある指定文化財についての説明として正しいものを次の中から選びなさい。
    1. 平成19年度、国指定・県指定・市指定の合計数が100件を越えた。
    2. 指定品の点数が最も多い分野は建築物である。
    3. 国宝は彦根城天守と彦根屏風の2件である。
    正解:C. 国宝は彦根城天守と彦根屏風の2件である。
    彦根市の指定文化財は、国宝は彦根城天守と彦根屏風の2件です。国・県・市指定文化財を合計すると92件があり、国登録文化財は6件です。指定文化財の分野のうち最も数が多い分野は彫刻で、26件あります。市内の寺社には平安・鎌倉時代に作られた仏像などが多く伝来しています。
  73. 国宝・彦根屏風は江戸時代初期、寛永年間の(  )の風俗を描いた風俗図です。(  )内に入る言葉として正しいものを次の中から選びなさい。
    1. 江戸の花見 
    2. 京都の遊里 
    3. 大坂の商家
    正解:B. 京都の遊里
    彦根屏風は、彦根藩主井伊家に伝来したことからこのように呼ばれています。江戸時代初期、寛永年間(1624〜44)に制作されたと考えられており、描かれているのは、京都の遊里、六条三筋町のようすと推定されています。当時の華やかな風俗が描かれており、近世初期風俗図の最高傑作として国宝に指定されています。現在は彦根城博物館に所蔵されています。
  74. 平成20年大河ドラマ「篤姫」で井伊直弼役を演じた人物を次の中から選びなさい。
    1. 中村梅雀
    2. 中村吉右衛門
    3. 中村勘三郎
    正解:A. 中村梅雀
    平成20年NHK大河ドラマ「篤姫」で井伊直弼を演じたのは、歌舞伎役者で俳優の2代目中村梅雀です。劇中、直弼は将軍徳川家定から若くして後継に選ばれた慶福が成人するまで篤姫(宮崎あおい)を後見人とするように遺言を受けていましたが、大奥の政治介入を嫌って、家定の死後にその遺言を反故にし、天璋院と名を改めた篤姫と対立しました。その様子が中村梅雀の好演をもって描かれました。この直弼は、自分の行動に信念を持っており、悪名を蒙ることも自分に課せられた役目であると考えていました。それを知った天璋院もその私心のない姿を認めるようになっていた矢先、桜田門外の変がおこります。
  75. 湖東焼を始めた絹屋半兵衛を主人公にした幸田真音の歴史小説『あきんど—絹屋半兵衛—』の発表当時の表題を次の中から選びなさい。
    1. 藍色のベンチャー
    2. 夏が逝く瞬間
    3. 黄金の日々
    正解:A. 藍色のベンチャー
    滋賀県出身の小説家・幸田真音の歴史小説『あきんど—絹屋半兵衛—』(新潮社)の発表当時のタイトルは『藍色のベンチャー』です。ゼロから湖東焼を起こした彦根の商人・絹屋半兵衛を主人公に、幕末という時代の荒波に翻弄されるベンチャービジネスが描かれた長編小説です。作中、湖東焼を愛した井伊直弼も登場し、庶子から藩主、大老へと歩んでいく姿が湖東焼の隆盛とともに語られています。
  76. 昭和27年に彦根市内(  ア  )の商店街(  イ  )店舗が加盟して彦根商店街連盟が誕生しました。当時は子供歌舞伎を演じた春の(  ウ  )や秋のゑびす講など、季節ごとに大売出しの開催などのお客様還元イベントをおこなっていました。(  ア  )〜(  ウ  )に当てはまる組み合わせとして正しいものを次の中から選びなさい。
    1. (ア) 9 ・ (イ) 840 ・ (ウ) 商店街まつり
    2. (ア)11 ・ (イ) 780 ・ (ウ) 商工まつり
    3. (ア)13 ・ (イ) 630 ・ (ウ) 城下町まつり
    正解:B. (ア)11 ・ (イ) 780 ・ (ウ) 商工まつり
    彦根商店街連盟は、昭和27年(1952)に市内11商店街780店が加盟して誕生しました。当時は、春の商工まつりをはじめ、夏の二七の市、秋のゑびす講、年末の歳の市など季節ごとに大売出しの開催などお客様還元セールを行っていました。現代にも受け継がれている伝統行事やタウン誌『あっ!』の発行などを通じて、常にお客様に商店街の存在をアピールしています。
  77. 彦根駅前商栄会エリアにある大師寺に安置されている像の通称を次の中から選びなさい。
    1. 寝弘法さん
    2. 吉祥さん
    3. 開運大黒さん
    正解:A. 寝弘法さん
    佐和町にある大師寺には、通称・寝弘法さんとよばれる仏像が安置されています。寝転んだ珍しいその姿は古くから親しまれてきており、その頭部には、京都の東寺から分けられた仏舎利が入れられています。また、大師寺では毎月21日と28日には護摩修行の祈祷が行われています。
  78. 「あきんどのまち 彦助通り」がキャッチフレーズのおいでやす商店街に並ぶ建物の外観の特徴を次の中から選びなさい。
    1. 平瓦張りと「なまこ壁」をポイントに和風に統一されている。
    2. マリア・テレジア・イエローを基調色とした欧風に統一されている。
    3. 店舗の軒先にハイビスカスが植えられた南国風に統一されている。
    正解:A. 平瓦張りと「なまこ壁」をポイントに和風に統一されている。
    おいでやす商店街は、平瓦張りと「なまこ壁」で統一された和風な外観が特徴となっています。彦根の玄関口にあって「あきんどのまち」のキャッチフレーズに相応しい雰囲気が作られています。町のあちこちで見かけるレリーフには、丁稚奉公の少年をモチーフにしたマスコットキャラクター「彦助」が描かれ、商店街の景観に花を添えています。
  79. 銀座商店街では、年に2回のイベントで道を歩行者天国とします。このイベントとして正しいものを次の中から選びなさい。
    1. 春のお花まつりと初夏の七夕
    2. 晩夏の地蔵盆と冬の大晦日バザール
    3. 夏の土曜夜市と秋のゑびす講
    正解:C. 夏の土曜夜市と秋のゑびす講
    銀座商店街では、年間を通して様々なイベントが行われています。中でも、夏の土曜夜市と秋のゑびす講は盛大なイベントで、市内外からやってきた人々が歩行者天国となった通りに集まり、盛大に盛り上がります。また、歩行者天国にはなりませんが、七夕の飾りつけは大々的に行われ、毎年、見る人の目を楽しませてくれます。
  80. 今年、解体が決定した銀座町にあるマルビシ百貨店ビルについて正しいものを次の中から選びなさい。
    1. 昭和12年に建築家ヴォーリズが手がけ、当時としては珍しい地下1階まである。
    2. 昭和10年にかつての第百三十三国立銀行の3階建てビルを移築して建てられた。
    3. 昭和8年に建てられた4階建てで、白亜のモダン商業施設と称された。
    正解:C. 昭和8年に建てられた4階建てで、白亜のモダン商業施設と称された。
    銀座商店街にあるマルビシ百貨店は昭和8年(1933)に、市内20の商店が出資して建てられた四階建ての百貨店です。白亜のモダン商業施設として注目され、文化的活動の中心として連日多くの人で賑わっていました。戦後しばらくは百貨店として機能していましたが、それぞれの店が別の場所に移るなどして次第に使われなくなり、老朽化により、平成20年に解体されることが決まりました。
  81. 彦根城下町で300年以上、薬屋を続けている銀座商店街の老舗・丁子屋薬局の当主は、久左の辻の由来となった人物と親戚関係にありました。江戸時代以来、この薬屋の当主が代々名乗った名前を次の中から選びなさい。
    1. 近藤市右衛門
    2. 北川徳兵衛
    3. 藤田市左衛門
    正解:A. 近藤市右衛門
    銀座商店街にある丁子屋薬局は、元禄5年(1692)に創業したと伝わる老舗です。彦根城下有数の豪商といわれ、久左の辻の由来にもなった近藤久左衛門の分家で、当主は代々、近藤市右衛門を称しています。薬や香料などを扱っていたようです。現在も久左の辻のすぐ近くで薬局を営んでいます。
  82. 丁子屋薬局で現在も使われている昔ながらの道具を次の中から選びなさい。
    1. 薬を種類ごとに分けて納める「百味箪笥」
    2. 薬や香料の原料となる諸国の植物を網羅した「香草百態」
    3. 彦根藩主井伊家から下賜された薬剤調合用の「薬研(やげん)」
    正解:A. 薬を種類ごとに分けて納める「百味箪笥」
    丁子屋薬局には、江戸時代から使われていた道具の一つに「百味箪笥」が残されています。「百味箪笥」とは漢方の材料を種類ごとに納めておく箪笥で、用途に合わせて取り出した材料を調合して漢方薬を作ります。他の古いものは、徐々に新しいものへと取り替えられていきましたが、この「百味箪笥」だけはまだ現役で使われ続けています。
  83. 夢京橋キャッスルロードにある宗安寺は、( ア )の正室である東梅院が( イ )建てた寺院です。( ア )〜( イ )に入る組み合わせとして正しいものを次の中から選びなさい。
    1. (ア) 徳川家康・(イ) 井伊直政の新しい領地を記念して
    2. (ア) 石田三成・(イ) 夫の戦勝祈願のため
    3. (ア) 井伊直政・(イ) 父母の菩提を弔うため
    正解:C. (ア) 井伊直政・(イ) 父母の菩提を弔うため
    夢京橋キャッスルロードにある宗安寺は、井伊直政の正室である東梅院が父母の菩提を弔うために建てた浄土宗の寺院です。元々は直政が治めていた上野国(群馬県)にあった安国寺という寺院でしたが、直政が佐和山城主となったのにあわせて移され、寺の名称も東梅院の父母の戒名から一文字ずつとって宗安寺と改められました。東梅院は徳川家康の養女となっていたこともあり、徳川家康の位牌を安置する権現堂があり、家康の年忌供養がなされました。朝鮮通信使高官の宿泊施設として使われたのも有名です。
  84. 「諸共(もろとも)に いさよきに長き 壽(ことぶき)を ますますいとの 心とも見よ」という和歌は、長野主膳がある返礼として詠んだといわれていますが、それは何の返礼か、正しいものを次の中から選びなさい。
    1. 京都の公家から政治的協力を惜しまないという手紙をもらった時の返礼
    2. 井伊直弼が大老に就任したことを私塾の教え子から祝われた時の返礼
    3. 井伊直弼から彦根城下の菓子商・糸屋重兵衛の「益寿糖」を贈られた時の返礼
    正解:C. 井伊直弼から彦根城下の菓子商・糸屋重兵衛の「益寿糖」を贈られた時の返礼
    設問にあるのは昭和29年(1954)に井伊家の別館であった千松舘が保存している史料から見つかった和歌です。長野主膳(もしくはその妻の多紀)が、彦根城下の菓子商糸屋重兵衛の菓子「益寿糖(えきじゅとう)」を井伊直弼から贈られた返礼として詠んだものといわれています。いと重の「いと」や益寿糖の「益」、「寿」などの言葉が歌に詠み込まれています。「益寿糖」は当時彦根随一の銘菓だったようで、幕末から明治頃には井伊家からの贈り物としてしばしば使われていました。
  85. 花しょうぶ通り商店街で、今年3月にかつての銭湯を改装し、戦国武将や商店街にちなんだグッズ販売などをおこなっている街の駅2号館の名称を次の中から選びなさい。
    1. 戦國丸
    2. 戦國城
    3. 戦國館
    正解:A. 戦國丸
    花しょうぶ通り商店街に、今年3月にオープンした街の駅2号館は「戦國丸」といいます。彦根城は江戸時代になってから建てられましたが、それ以前の戦国時代に彦根にあった佐和山城を中心に商店街でPRしていくことを目的に、かつて銭湯だった場所を改装して作られました。店内では、マスコットキャラクターのしまさこにゃんなどのグッズの販売や、手作り甲冑の展示などがおこなわれています。
  86. 花しょうぶ通り商店街にある出口酒店では、昔からの屋号が今も店頭に掲げられています。その名称を次の中から選びなさい。
    1. 布蔵
    2. 布市
    3. 布一
    正解:B. 布市
    花しょうぶ通り商店街にある出口酒店は、享保2年(1717)の創業です。当時は布屋を営んでおり、布屋市兵衛と称していたことから「布市」の名前で親しまれてきました。明治に入ると、5代目が「布市」の店名のまま新しい商いとして造り酒屋をはじめ、オリジナルブランドの酒が販売されるようになりました。現在は店名を変え、酒類の小売販売を行っていますが、古くからの馴染みは今でも「布市さん」と呼んでいます。
  87. 花しょうぶ通り商店街で300年以上、糀(こうじ)業一筋で続けている老舗・糀七で、長年の経験を元に糀が育てられている場所の名称を次の中から選びなさい。
    1. 醸し蔵(かもしぐら)
    2. 醪み壺(もろみつぼ)
    3. 穴の室(あなのむろ)
    正解:C. 穴の室(あなのむろ)
    花しょうぶ通り商店街にある「糀七」は、元禄14年(1701)から糀製造業一筋で続けられている老舗です。糀は日本酒や醤油など発酵食品に欠かせません。「糀七」では穴の室と呼ばれる場所で、大切に糀を育てています。気温や湿度の変化に気を配り、糀の状態を見ながらの細かい作業は、長年培われてきた経験と職人の腕前によるものです。「糀七」で厳選された素材を元に作られる味噌は絶品と評判です。
  88. 現在の中央商店街と銀座商店街が交わる附近には、江戸時代、外堀にかかる橋と門がありました。この門の名称を次の中から選びなさい。
    1. 油掛口御門
    2. 佐和口御門
    3. 高宮口御門
    正解:C. 高宮口御門
    銀座商店街と中央商店街が合流する場所は、かつては鍵の手になっており、江戸時代にはここに高宮口御門が建てられていました。ここから七曲がり、大堀村を抜けて中山道高宮宿へとつながる高宮道の起点であったことが門の名称の由来です。街道と彦根城下を結ぶ交通の要所として、多くの人で賑わっていました。現在、門のあった場所には石碑が建てられています。
  89. 彦根出身の画家である上田道三の作品「明治の風呂屋」にも描かれている、彦根城下町で今も続いている銭湯・山の湯の名物を次の中から選びなさい。
    1. 赤茶色をした薬湯
    2. 半蒸半浴の桶風呂
    3. 無料マッサージサービス
    正解:A. 赤茶色をした薬湯
    かつて彦根城下は趣き深い銭湯が密集する場所として、数多くの人が訪れたといわれています。「山の湯」は現在も城下町で営業を続けている銭湯の一つです。明治初年の開業で、普通湯と薬湯の2種類の浴槽が明治時代からの名物で、彦根の城下町の様子を描いた上田道三の作品にも、男湯・女湯のそれぞれに2種類の浴槽があり、大勢の客で賑わっていた様子が描かれています。
  90. 山の湯の近くで現在も、江戸時代以前からの湧き水が湧いている場所の通称として正しいものを次の中から選びなさい。
    1. 濠ノ内
    2. 浅乃江
    3. 犀ヶ淵
    正解:C. 犀ヶ淵
    「山の湯」はかつての彦根城外堀沿いに建てられています。この付近に、彦根城築城以前からの湧水である犀ヶ淵があり、その湧き水が外堀を流れるよう、外堀の位置が設計されていたと考えられます。山の湯付近には、外堀の土塁も残っています。
  91. リバーサイド橋本通りで、昨年オープンした地域交流施設の名称として正しいものを次の中から選びなさい。
    1. あるこう館
    2. いこう館
    3. やろう館
    正解:B. いこう館
    リバーサイド橋本通りで、平成19年、芹川のたもとに「食と癒しのスペース いこう館」がオープンしました。元建築事務所だった場所を地域交流が深められる場所にしようと改装し、庭にバラストを敷き、お洒落なウッドデッキの空間として生まれ変わりました。施設ではパソコン教室や絵手紙教室といった文化教室や滋賀県立大学人間文化学部栄養管理学科の学生による「学生さんの食堂」の会場など様々なイベントが出来る多目的交流施設として使用されています。
  92. 上記の地域交流施設で、今年から毎月10日に地場野菜の直売やフリーマーケットをおこなっている商店街の行事を次の中から選びなさい。
    1. 月ゑびす
    2. 橋の市
    3. リバーサイドフェスタ
    正解:B. 橋の市
    リバーサイド橋本通りでは平成20年2月から、毎月10日を「橋の市」の日と決め、いこう館でイベントを開催しています。商店街の人たちと参加者が持ち寄った産地直送の野菜や花の直売やフリーマーケット、露店などが催されています。商店街の人たちがお客さんを心からもてなすひと時を提供しています。
  93. 井伊直弼と開国150年祭でこれまでにあった式典についての説明として正しいものを次の中から選びなさい。
    1. ペリーの遠縁と井伊家当主がビアンカ船上で署名を交わす式典があった。
    2. 開会式は、日米修好通商条約締結日を太陽暦に換算した日におこなった。
    3. 入城10万人目のセレモニーでひこにゃんが踊りを披露した。
    正解:A. ペリーの遠縁と井伊家当主がビアンカ船上で署名を交わす式典があった。
    平成20年7月29日に「井伊直弼と開国150年祭」主催行事として、彦根港に停泊した遊覧船ビアンカの船上で日米修好通商条約締結150周年記念式典が行われました。式典には米国大使館公使やペリー提督の遠縁にあたる方も出席され、新たに彦根宣言が調印されました。彦根宣言では直弼の追い求めた一期一会の精神を大切にし、新たな直弼像の発信と日米両国の友好関係の発展が約束されました。150年祭の開会式は、井伊直弼が大老に就任した日を太陽暦に換算した6月4日におこなわれました。
  94. 井伊直弼と開国150年祭の催しとして、彦根城内のある会場で、井伊直弼の功績や開国当時の様子をパネルや映像で紹介する特別展を今年10月から開催しています。この会場として正しいものを次の中から選びなさい。
    1. 開国記念館 
    2. 天秤櫓 
    3. 佐和口多聞櫓
    正解:A. 開国記念館
    開催中の井伊直弼と開国150年祭では、様々なイベントが企画されています。平成20年10月から、改修を終えたばかりの開国記念館で、日本を開国へと導いた大老・井伊直弼の功績や開国当時の様子を映像やジオラマ、パネルなどで紹介した特別展が開催されています。その他、佐和口多聞櫓の特別公開など、彦根城内を会場にさまざまなイベントが開催中です。
  95. 今年、彦根城下町でおこなわれた、ひこにゃんをはじめ全国からマスコットキャラクターの着ぐるみが一堂に会したイベントの名称を次の中から選びなさい。
    1. ゆるキャラ全国大会inひこね〜キグるミふぉーらむ2008〜
    2. ゆるキャラフェスタinひこね〜キグるミのつどい2008〜
    3. ゆるキャラまつりinひこね〜キグるミさみっと2008〜
    正解:C. ゆるキャラまつりinひこね〜キグるミさみっと2008〜
    平成20年10月25日と26日に、夢京橋キャッスルロードをメイン会場として「ゆるキャラまつりin彦根〜きぐるミさみっと2008〜」が行われました。井伊直弼と開国150年祭のマスコットキャラクターひこにゃんをはじめ、北は宮城県から南は佐賀県まで46のゆるキャラたちが一堂に介し、大勢の人で賑わいました。
  96. 問95のイベントの説明として誤っているものを次の中から選びなさい。
    1. イベントでエスコートをしたやちにゃんは井伊直弼の娘を元にしたキャラクターである。
    2. 天守前広場でキャラクターが勢揃いして撮影会をした。
    3. ひこにゃんが奈良のせんとくんとなーむくんの仲直りの仲介をした。
    正解:B. 天守前広場でキャラクターが勢揃いして撮影会をした。
    ゆるキャラまつりでは、ひこにゃんのほかに彦根からしまさこにゃんやいしだみつにゃん、やちにゃんなども参加しました。やちにゃんは井伊直弼の2女・弥千代がモデルとなったキャラクターです。また、平城遷都1300年祭のマスコットキャラクターであるせんとくんとなーむくんの仲直りの場も用意され、ひこにゃんがその仲介役を務めました。
  97. 井伊直弼と開国150年祭では、直弼を知ってもらうため様々なイベントを開催しています。次の中から実際に行ったものを選びなさい。
    1. 直弼を主人公とした映画の鑑賞会
    2. 直弼も自作した楽焼の絵付体験
    3. 直弼自筆の手紙を解読する古文書講座
    正解:B. 直弼も自作した楽焼の絵付体験
    井伊直弼と開国150年では、平成20年9月〜11月にかけて「直弼好みの陶芸体験」と題したイベントが行われました。中でも、京橋口駐車場の特設テントで開催された楽焼絵付体験では、参加者が楽焼の製法を用いて陶器に自分流の絵付けを行い、その場で焼成し、仕上げて持ち帰りました。
  98. 井伊直弼と開国150年祭で、11月に花しょうぶ通り商店街や彦根城博物館などを会場として開催されたイベントを次の中から選びなさい。
    1. ひこにゃん杯カロム大会と150手限定カロムまつり
    2. 市長杯ニュースポーツ大会と150個の餅まきまつり
    3. 直弼杯囲碁大会と150面打ち囲碁まつり
    正解:C.直弼杯囲碁大会と150面打ち囲碁まつり
    井伊直弼と開国150年祭主催のイベントで、平成20年11月1日と2日、彦根城博物館能舞台や花しょうぶ通り商店街などを会場に直弼杯囲碁大会と150面打ち囲碁まつりが開催されました。2日に行われた150面打ち囲碁まつりでは、商店街に75面の碁盤が並べられ、それぞれの席に着いた参加者の前をプロ棋士8人が回る対局を2回行い、見事、150面打ちが達成されました。
  99. 井伊直弼と開国150年祭のマスコットキャラクター・ひこにゃんの説明として誤っているものを次の中から選びなさい。
    1. 首に巻いているスカーフは緑色である。
    2. 髭(ひげ)の本数は左右に3本ずつである。
    3. 彦根市の特別住民票を持っている。
    正解:B. 髭(ひげ)の本数は左右に3本ずつである。
    井伊直弼と開国150年祭のマスコットキャラクター・ひこにゃんの特徴は、左右の2本ずつのひげと首に巻いた緑のスカーフ、黄色い鈴、井伊の赤備えを模した両側に角のような天衝が伸びた兜、白くぽっちゃりとした体形……などが挙げられます。昨年の彦根城築城400年祭において、彦根市から特別住民票が交付されました。
  100. 地球温暖化の原因となっている温室効果ガス削減を目的として今年7月に彦根市が行ったことを次の中から選びなさい。
    1. 低炭素社会構築都市を宣言した。
    2. ラムサール条約に調印した。
    3. 7月7日を市民環境の日に制定した。
    正解:A. 低炭素社会構築都市を宣言した。
    世界規模で深刻な問題となっている地球温暖化の原因と考えられている温室効果ガスを、一人ひとりが生活を見直すことから削減していこうと、彦根市では平成20年7月7日に「低炭素社会構築都市」を宣言しました。今後、市民それぞれが温室効果ガス削減のために何が出来るかを考え、行動していけるよう、取り組みが始められています。