2004.11.15

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学生さんとのおつきあい 1
学生さんとのおつきあい 2
ゑびす講
発行 彦根商店街連盟
編集 彦根商店街連盟広報部会

今号は彦根の大学生の皆さんに商店街へ立ち寄っていただけるよう特別に企画しました。
少し昔の商店街と学生さんとのおつき合いを振り返ってみると、私たち自身、特別ではない日常に学生さんの姿があったことを思い出します。せっかく彦根の大学で学ばれているのです。是非、商店街を経験してみてください。皆さんと商店街の新しい関係が育まれることを願っています。ぜひ、是非、商店街へ……。

出口酒店(花しょうぶ通り商店街 / 彦根市河原)

出口さん

出口 市郎さん(67)

アルバイトの学生さんに来て頂いていたのは、20年ほど前のことでしょうか。普段は滋賀大学の学生さんが、お中元とお歳暮の忙しい時には、彦根に里帰りしている京都の私立大学の方にも臨時で来てもらっていました。地元の学生さんが働いていてくれると、その家族やご近所さんが買い物に来てくださるので、思わぬところで「お得意様」の輪が広がったりすることもありました。
うちで働いてくれていた滋賀大学の学生さんは、「質実剛健」のまじめでちょっと内気な男子学生がほとんどでしたね。当時はお中元やお歳暮の注文がたくさんあって、昼間は配達に走り回り、夜は遅くまで包装の作業を学生さんと社員総出でしていました。みんな文句も言わずに、本当に気張ってくれましたよ。
その頃の学生さんたちは、確かに未熟な部分もありましたが、根性があったし、何よりも心が素直な子たちが多かったように思います。働き始めた頃は細い体でお酒も運べず、接客の時も口ごもっていた子が、4年もすれば体格もよくなって、お客さんにもしっかりと対応できるようになります。時には叱ったり、怒鳴ったりもしましたが、そんな学生さんたちの成長を見守ることも楽しいものでした。今思えば、あの子たちはアルバイトを通して、社会経験を積み、一生懸命に自分自身を磨いていたんですね。


近江牛の老舗 藤井(中央商店街 / 彦根市中央町)

藤井さん

藤井 義雄さん(74)哉子さん(71)

今は4代目の息子夫婦に任せていますが、私たちがお店を切り盛りしていた昭和45年頃は、常時3〜5人ぐらいの滋賀大学経済学部の学生さんに来てもらっていました。当時は、鐘紡の社宅や国鉄(現JR)の社員寮など個人のお宅とのお付き合いが多かったので、主に「御用聞き」や「配達」などの仕事をしてもらっていました。
食べ盛りの学生さんが多かったので、お昼だけは「お肉と野菜のごった煮」を賄いとしてだしていました。とても好評で、他ではアルバイトが続かない方でも、うちでは「お肉効果」で卒業するまできっちり働いてくれましたよ。
集金のお金があわなかったり、配達中に事故に遭ったり、心配や失敗は多々ありましたが、子供の面倒を見てくれたり、勉強を教えてくれたりと、あの頃はお店に活気もあって、毎日が楽しかったことを思い出します。当時の学生さんも、今ではもう50代ですが、年賀状を下さったり、お店を訪ねてくれたり、そういう交流もまた、うれしい限りです。
最近では、個人宅への配達がめっきり減ってしまったので、学生さんのアルバイトはやめてしまいましたが、もう一度、あの頃のように賑やかな毎日が戻って来て欲しいですね。


十一屋(西部の会 / 彦根市城町)

野上さん

野上 稔さん(70)

昭和25年頃は彦根工業高校の夜間部、昭和30年代は滋賀大学経済短期大学部(夜間部)、昭和60年頃からは滋賀大学経済学部(昼間部)と、時代に応じていろんな学生さんに働きに来てもらっていました。
その中でも、滋賀大学の昼間部の学生さんたちの働きぶりには特に感心しましたね。うちではボート部やラグビー部、少林寺拳法部など体育会系クラブの「部員をまるごと雇う」といった感じだったので、キャプテンが統率をとって、アルバイトの部員たちを上手くまわしてくれました。 例えば、勤務シフトは全て彼らに任せて組んでもらっていましたし、新人の教育もクラブの先輩でもあるアルバイトの先輩が後輩にしっかりと指導してくれていたので、ほとんど放任状態でした。
学生さんは4年間で卒業されますが、同じクラブの中から必ず有望な後輩を紹介してくれるので、公募しなくてもアルバイトが途切れることはありませんでしたよ。
ひとつのクラブの部員さんにアルバイトに来てもらうと、結束力があり、キャプテンを中心に責任感を持って働いてくれるので、本当にいろいろ助かりました。学生さんの方も「良い経験になった」と言って下さっていたので、「雇用主とアルバイト」と言う関係でしたが、お互いによい信頼関係を持って働けていたのではないかと思います。


(有)乃がみや(四番町スクエア / 彦根市本町)

乃がみや

野上 俊夫さん(60)

うちに初めて学生さんのアルバイトが来られたのは、昭和35年頃でした。当時、私はまだ中学3年生で、その方は滋賀大学経済短期大学部(夜間学部)の男子学生だったと記憶しています。
当時は、家庭の金銭的な事情で4年生の大学への進学が困難で「昼間は生活費と学費を稼いで、夜は勉学に励む」という夜間部の「苦学生」も多く、そういう学生さんを先代の父は積極的に受け入れていたようです。夜間部に通う学生さんは、勉学に対する「こころざし」や「欲求」がもの凄く強かったですから、仕事に対しても自然と熱心に取り組んでおられました。
私がお店を手伝うようになってからも、夜間部の学生さんを受け入れていましたが、「着のみ着のまま、靴一足」という学生さんもおられて、見るに見かねて御飯を食べさせてあげたり、服や靴を融通してあげたりといろいろなお世話もしていました。そんな学生さんも立派に企業に就職し、社会人になって、先代が亡くなった時には線香をあげに遠方から来てくれたのには感激しました。
今時のアルバイトは「遊ぶための『おこづかい』を稼ぐ」といった感じで、あの頃の学生さんのような「学費と生活費を得る」というような必死さや真剣さが感じられないのが寂しいですね。これも「豊かな時代」だからこそのことなのでしょうか。


若林スポーツ(中央商店街/彦根市中央町)

若林さん

若林 成幸さん(54)

滋賀大学を卒業された方と20年来のおつき合いをしています。彼の結婚式でスピーチもしましたし、今も時々ロンドンからメールが入ります。滋賀大学テニス部のお客さんの一人だったのですが、私にとっては弟のような存在でした。
私は学生時代を神戸で過ごし卒業後、銀行に5年ほど勤めて彦根に帰って店を継いだのは27歳。昭和57年でした。まだ、学生の頃の雰囲気も忘れられなかったのでしょう彼とはいろいろなことを話しました。
「本は何を読んでるの?マルクスは読まないの?」とか、ガットを張り替えている間に話したりするんです。彼は神戸の出身で、私は経営学部でしたし学生時代へのノスタルジーもあり、お互い何か共感し合うところがあったのでしよう……。特別にご飯を食べに言ったり、一緒にお酒を飲むようなことも無かったのですが、よく話だけはしましたね。彼は1年留年しましたから5年間です。滋賀大学と彦根が随分好きだったようで、卒業してからも土曜、日曜はテニスをしに帰ってきてましたし、店にも寄ってくれました。スポーツ店のオヤジとお客さんという関係でしたが、本当に長い付き合いになりました。
最近は、学生さんと話すことも少なく(私も忙しく時間が無いというのもいけないのですが)、親しくなる機会が無いのがとても残念ですね。


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 この記事は、2004年11月15日執筆時の情報に基づいており、現在では異なる場合がございます。